退学した時から日大本部は変わっていない

 

 

私が日大系列の大学院を退学したのは、数年前だ。

文系の院生は日がな一日、もしくは夜っぴて研究室にこもっているわけでもあるまいに、何をそこまで衝突するのかと思うかもしれない。でも誰かに、私を知らない誰かに聞いてほしい。

アメフト部の事件や日大チアのパワハラ問題でかつての出来事が蘇り、いまだに感情をえぐられていることを。

 

学科を書けば即座に特定できる狭い世界なので、時系列や事実を証拠やデータとして示すことはできないが、嘘やフェイクはない。

だから、ここに書いてある内容は、かつて日大生だった1人の人間の主観的な回想だ。

 

 

修士号を取得して、博士課程に進んでから担当になった教授からアカデミックハラスメントを受けた。

博士論文を書くにあたって指導教官が変わったのは、それまでの教官が退官したためだ。私と数名の学生は、引き継ぎもおこなわれないまま新たな指導教授の下についた。

もう少し教授陣と学生の間で研究テーマのすり合わせがおこなわれていれば、状況は違ったのかもしれない。ただ、退官する教授はギリギリまで学生たちを手元に置いて指導したがる権威的な人物だったし、大学院としての指導体制も当時はそこまで整備されていなかった。

 

担当教授と一対一の閉鎖的な空間で、「あなたは何もできない」、「自分(教授)の学生として恥ずかしい」と言われ続けた日々。ケアレスミスをすれば「こんな基本的なことも分からないの」、あるいは長期に渡って「今度はあんな恥ずかしいミスはしないようにね」、調べたことを書けば「あなたが調べたことは信用できない」、そういった言葉は、浴びせられ続けると、頭にこびりついて片時も離れなくなる。

次こそ挽回しようと研究に取り組んでも、言葉が毒のように回ってばかりで思考ははたらかない。何を書いているのか、何をやっているのかが自分でも分からなくないという状態になるまで、半年もかからなかった。

受け持った学生にもれなく同様の態度をとっていたせいで、上の代、下の代は教官との面談やゼミに顔を出さなくなる。賢明な判断だ。今の私だったら、迷わずそうする。

ただ、当時まで、私は愚かしいほどに真面目だった。話し相手がいなくなり、「そもそもこの大学院はレベルが低い」、「同僚の先生がたは皆きちんと物事を分かっていない」、そうした愚痴も聞かされる羽目になった。

 

心が傷つけられるよりも現実問題として困ったのが、当該教授が好みの文体通りに「てにをは」をつけるまで文章の修正を求める人だったことだ。

ここまで読んで、私の文章におかしいところはあるだろうか?文章の巧拙や語彙は別として、「読めるか読めないか」で判断するなら、特別読みづらい文章ではないと多くの人が感じるのではないだろうか。

ご存知のように、文系の論文には定型というものはない。だから読みやすい文章さえ書いていれば助詞を逐一修正するような事態にはならないはずだ。

真っ赤になったレポートをその通り打ち直していくと、教授が指定した箇所の助詞を再度別のものに差し替えるということも日常茶飯事だった。時間を取られて研究は進まず、教授好みの文章に修正するまでに私の存在は文章から消え失せていった。

 

この上なく無意味な、そして悲しい時間を重ねるうちに何も手につかなくなり、顔にも痛く痒く醜い発疹が広がった。

半年の休学をはさんだある日、耐えかねて学内に出向している外部カウンセラーのところへ行くと、ものの10分も話さないうちにカウンセラーは真剣な表情になった。聞けば、当時はその学部全体で自ら命をたつ学生が続いており、日大全体でよく目を配るようにとお達しが出ていたのだという。かくいう私も、そういった考えに支配されていなかったかというと、嘘になる。

名前が出ないよう、匿名で教授会に相談することもできると言われたが、前述したように狭い世界だ。実質、該当教授の弟子は皆接触を避けているから、悩んでいるのは私しかいない。

結局は、定期的にカウンセラーに話を聞いてもらうことに話を落ち着けざるを得なかった。

この時、私はまだ自分が疲弊してしまうことより、研究を辞めさせられてしまうことの方を恐れいた。

私は馬鹿だ。

 

その後も状況が変わることは、当然なかった。消え去った注意力や判断力は戻って来ず、相変わらず自分でも驚くようなシンプルなミスを重ねた。当たり前だが一つのことに対してしつこく叱責をされ、前年以上に何もできない、ただ籍を置いているだけの落第者と見なされ続けて過ごした。何も分からない次の瞬間、何もかもが自分のせいだと分かっていた。体が鉛のように重く、空が青いのも、電車が遅れるのも、何もかも自分が存在しているせいなのだと常に自分を責めた。

優しくしてくれる人には「自分は優しく接してもらうような人間ではない」と卑屈になり、また諭されると「何も知らないくせに分かったような口をききやがって」と心で毒づいた。

吐くわけではないのにえずくようになった。消化物も胃液も出ないのに、私の体は何かを吐き出そうとして必死になっている。非常に滑稽な姿だった。

 

最終的にカウンセラーと別学部の院生に促され、日大本部のへ行った。現在ニュースを賑わせている、九段の学生相談センターに。

ここでの対応が一番辛かった。

 

 

 

弁護士だという初老の男性と、もう一人、中年女性が対応してくれた。

カウンセラーと共に、私は話す内容を整理していた。

カウンセラーとの面談でいつも言われたのが、「あなたの説明は理路整然としている。客観的で冷静である」ということだ。それを肯定してもらわなければ、もはや言葉を紡ぐことができないほど、追い詰められていたから、あの言葉にはとても助けられた。

客観的に、冷静に。途中で涙ぐんでしまったけれど、努めて冷静に話した。当初から強い言葉を投げかけられて教授の前では平静を保つことができなくなっていること、そこからパニックになって本来取り組むべきことに取り組めないこと、カウンセラーに相談し一定の理解を得ていること、学校を辞めないといけないと思うまで心が追い詰められていること。また、学部では対処しきれない問題だから、ここで力になってほしいということも言った。

そこでろくろく顔も見ず、弁護士だという男性は言った。

「辞めると決めたなら辞めればいいんじゃないですか」

「だって辞めるって思ってるんでしょ。なら辞めればいいじゃないですか」

 

私の顔はその時もまだ赤いブツブツした発疹に一面覆われていた。明らかにプレッシャーや心の問題に起因していることが分かるものだ。

ひどい顔で一人訪れ、耐えきれず涙を浮かべ、ハンカチを握りしめながら話す学生を前にしたその言葉を聞いて、私は来た時と同じように一人で会館を出た。

駅まで向かう道で、スッキリしたと思い込もうとした。「辞めよう」、「ああ言われたから辞めるんだもん」、「明日からレポートの赤い修正を追いかけなくていいんだ」‥‥それと同時に、駅に着いたら電車に飛び込もうと考えていた。

あんな対応をされたことの腹いせに飛び込もう、これから勉強を再開する力もない、顔も痛くて辛い、食べ物も味がない、逃げ場がない!

怯えて怯えて、そこで「殺される」と思った。このまま我慢したら日大に殺される。

飛び込むなら遺書を書いてから、と自分を騙してベンチで電車を待った。乗り込んで目を閉じると、涙が荒れた頰を伝って発疹の凸凹をことさら意識させたけれど、家に帰ろう、家に帰ろう、それだけを念じてごちゃごちゃの感情を閉じ込めた。

 

カウンセラーを始め、関係各所に挨拶に行き、指導教授にも退学の旨を伝えた。

せめてもの思いで、指導教授にはこれまでつけてきたアカハラの記録をプリントアウトして、押し付けた。この数年間、先生の指導で私が感じていたのはこれでしたと、せめてもの復讐心で突きつけた。

一連の出来事の中で、最も辛かったのは、日大本部での短い面談だ。

出した記録をその場で読んだ指導教授が涙を流したことが、私を最も苛立たせたことだった。「全くそんなつもりはなかった」、「いい論文が書けると期待していたのに」、そして極めつけはこれだった。「これだけは一つ伝えておきたいんだけど」という言葉に私は身構えてしまう。

「死なないでね」

いや、自殺だけはしないでね、だったか。血管が沸騰するような、とはいかず体の芯がスッと冷えるような言葉のディテールを、覚えていない。

心底から案じている表情と気持ちが透けてみえるせいで、それは苛立ちを通り越して愉快でさえあった。

あの時元気があればどの口が言っているんですか、と問うたところだ。

 

 

 

アカデミックハラスメントの時効は1年。

ただ一対一の閉鎖的な空間の中で浴びせられ続けた言葉、耐えかねて相談しにいった日本大学本部での追い討ちをかけるような対応で、私は以前とは別の人間になってしまった。

美しいと思って取り組んだ当時の研究テーマについて、もはや美を見出すことはできない。見たくもないし聴きたくもない。

 

退学に関しては、惜しいとは思っていない。こういう事態に遭遇しなくても、自分の未熟さやさまざまな事情で大学を去らざるを得なかったかもしれないからだ。在籍していれば論文が書ける、博士になれるなどと思っているほど楽観的でもない。

何より辛いのは、学ぶ喜びを失ったことだ。

かつての私は、勉強が好きだった。知らないことを調べ、本を読み、知的好奇心をもって物事に触れることができた。

当時、これがある種の才能であると理解していたら、それを潰されないうちに、壊されないうちにと退学を早めたのに!

愚かにも、人格攻撃を受け続けることを我慢して、受け流すことこそ強いのだと思い込み、それだけが唯一学びを続ける道だと思っていた。私は、自分の知的欲求を「ギフト」だとは知らなかった。誰もがあの喜びを知っていると信じて疑わなかった。また、知識を吸収する楽しみは生涯失われないのだとも。

 

かたちのつかめない無力感と自己否定的な感情に心の片隅を支配され続けている。それはさしずめ、晴れることのない霧だ。霧を通して見る景色は荒涼としている。どんなに楽しい場面にも、ベールのようにくすみを置いてしまう。

あの院生生活を超えるような辛く悲しい出来事は、きっとこれからも待っているだろう。それは理解している。「あれがあったから何でも乗り越えられる」とは思っていない。私は30代だ、これからも打ちのめされるような出来事がいくつも起こるに違いない。

けれど楽しいこと、嬉しいことは、あの出来事を経験する前のようには絶対にやってこない。私の存在を、私が当時心血を注いでいたことをその道の先達という教授に貶められ、否定されたという経験は、学びたいという意欲を汚い色で染めてしまった。

現在の私は周囲の人に恵まれて充実した生活を送っている。けれど、基本的に今の生活は「余生」だと思っている。

 

現在の日大のニュースは、分かってはいたことだし、日大本部に対してはざまぁ見ろという気持ちが大きい。それでも、目に触れる度に不快で、月並みな表現だけれど本当に胸が痛くなる。

私はずっと日大のある学部に憧れていた。その憧れの大学に入って、大学院に進んで、名門校ではないけれど、その学部の学生であることが誇らしくて、憧れがあんな風に終わるなんて想像もしていなかった。

あの時ひどい対応をした全ての人間を許すことはこれからもないけれど、アメフトの当該選手、日大チアの学生とその親御さん、また、私のように問題が表面化することなく大学を去った人が、日大を忘れて、より良い生活を送れることも、同時に願っている。もしここまで目を通してくれた人がいるなら、これはどこの大学にも、誰にでも起こり得ることだということを心に留めてほしい。そういう思いを抱えて、今の生活をしている人がいるかもしれないことを。

日大は、一度潰れろ。